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海外文学を中心に朗読した小説の分からないところを調べて、折角なのでまとめていきたいと思います。あなたの読書生活をお助け出来たら幸いです!

『シカゴ育ち』のまとめ スチュアート・ダイベッグ ファーウェル~冬のショパン・上

 

「シカゴ育ち」/スチュアート・ダイベッグ 柴田元幸訳 1981

 

先日購入しまして、ツイキャスで朗読し始めました。今日が一日目だったわけですが、無教養につきわからないところがあったので、少し調べてまとめてみたいと思います。

 

 

ファーウェル

Farwell

 Farwell Chicagoで検索したところヒットしたので、多分この“W Farwell Ave" のこと。

 

 

 シカゴはアメリカの北のほうにあるんですね。確かに雪が降りそう。

ストリートビューの画像だとこんな感じで(2016年現在)、緑豊かなきれいなところみたいですね。住宅街という感じ。

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あさってたらシカゴの昔のアパートメントの画像をまとめたサイトを見つけました。

chicago.curbed.com

アパートというよりお城ですね~~『シカゴ育ち』の登場人物たちはこんな綺麗な場所に暮らしてたんでしょうか。

 

冬のショパン

☆フランキー・ヤコビッチ・ポルカ・アワー??

フランキー・ヤコビッチでは一件も出てこなかったので、Frankie Yakovicで検索。検索候補にpolkaと出たので、ポルカの人みたい。

 

ふたりのYankovic - jinemoz ページ!

(前略)その演奏家とは、フランキー・ヤンコビックのことである。

ポルカキング」の異名を取り、グラミー賞も2回取っている、ポルカの大スターである。

1950年代には、人気番組「ローレンス・ウェルク・ショー」(日本の「シャボン玉ホリデー」の原形になったといわれるシャレた音楽番組)にもよく出ていたようだ。

その出演シーンのひとつ↓

 ...

 

フランキー・ヤンコビックは1915年にウエストヴァージニア州に生まれているが、両親はスロベニア、つまり元のユーゴスラビアからの移民。なので東欧移民二世である。で、なんと、アル・ヤンコビックの父もユーゴスラビア人なのだ。アル・ヤンコビックが生まれた1959年当時20代後半~30代前半くらいだったとすれば、もしかして年齢的にはフランキーの少し下くらい?1920年代~30年代生まれと考えられるので、やはり移民二世ではないかと考えられる。境遇に似たところがある。

ポルカは、もともとは土着のアメリカ音楽ではない。

19世紀前半にボヘミア(現在のチェコの西の方)の農民たちの踊りの曲として生まれ、19世紀の後半にプラハのサロンで紹介されたのを皮切りに、ヨーロッパ社交界に広く流行した。東欧チェコを発信地として東欧全体から、ドイツ、スイス、オーストリアにも。ウィーンでヨハン・シュトラウスが活躍していたのもこの時代。そういえばワルツだけでなくポルカもたくさん書いている。ポルカは当時のヨーロッパの最先端の流行音楽であり、イケてるダンスミュージックだったのだろう。

その後20世紀の初めころに東欧からアメリカへの移民が行われるようになり、そこでポルカアコーディオンとともに海を渡った。移民となったのは土地を持たない貧しい人たち。ユダヤ人も多かったそうだ。差別され迫害されてヨーロッパを出たのに、たどり着いたアメリカでもまた、先に移住していたイギリス系の移民と土地争いでの軋轢が激しく、定住までには大変な苦労をしたはず。

そうした親の姿を見て育ったのが、移民二世の世代だったのでは。

 

...最新のヒット曲をベースにしたポルカメドレーは、アル・ヤンコビックのアルバムには必ず入っているのだけど、いろいろ調べていくにつれて感じられるのは、東欧系であるという立ち位置を逆手にとった、けっこう悪意のあるユーモアであるということ。

聴いて笑っている自分は「ポルカそのもの」を笑っているのか、「ポルカにされているアメリカ」を笑っているのか・・・。

それによって自分の立ち位置があぶりだされてしまう怖さがある。

 

ところで「Yankovic」を「ヤンコビック」と読むのは英語読みで、原語だと「ヤンコビッチ」と読む、ということは最近知った。

以前見たアル・ヤンコビック出演のコントで、何度名前を言い直しても相手に「ヤンコビッチ君」って呼ばれるという話があったんだけど、今考えるとあれもけっこう悪意のあるネタだったなー。

 

下線は私が入れました。

東欧といわれて思い出すのはショパンですが、それはともかく少しフランキー・ヤンコビッチさんの演奏を聞いてみましょう。


Frank Yankovic: America's Polka King

 

 

www.youtube.com

 

陽気で明るい音楽ですね。シカゴ育ちの初版は奥付によると1981年、スチュアート・ダイベッグは1942年生まれ。この話の主人公は10歳前後か、10代前半かなという感じがしますので、1952年あたりが舞台だとして、祖父のジャ・ジャのお気に入りの音楽が20世紀初めころアメリカにやってきたポルカ、というのは計算が合いますね。

ジャ・ジャの半生は波乱万丈です。プロシアの軍隊、アラスカ、米西戦争、フィリピン。そもそもプロシア??ロシア??と思って調べたらプロイセンのことでした。プロイセンは今のドイツですね。

 

プロイセン - Wikipedia

プロイセン王国19世紀後半さらに勢力を増し、1867年北ドイツ連邦の盟主となる。さらに1871年プロイセン国王ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝となったが、皇帝自身はそれがドイツ帝国によるプロイセン王国の併合だと感じ、嫌悪感を隠さなかった。事実プロイセン王国意識は急速に薄れていき、皇帝ヴィルヘルム2世プロイセン王を名乗ることはもはやほとんどなかった。プロイセン地方もまた大帝国の中では影が薄くなってしまった。

1914年第一次世界大戦で、東プロイセン南部にロシア軍が侵攻、ドイツ軍はタンネンベルクの戦いで勝利を収め、ロシア軍を撃退した。

1919年ヴェルサイユ条約よりプロイセン王国ヴァイマル共和国の一邦・プロイセン州となり、西プロイセンはポーランド回廊となる。これにより東プロイセンはドイツ本土の飛び地となった。この地域に対するドイツの領土要求が第二次世界大戦勃発の原因となる。

1933年フランツ・フォン・パーペンのクーデターによりプロイセン州内閣が解散させられ、ナチ党政権下で大管区(ガウ)に分割された。第二次世界大戦中、プロイセン地方はドイツ軍の劣勢になるにつれ東部戦線の戦場となり、プロイセンの人々は敗戦直前の混乱の中ソ連軍を恐れて多くは難民となり西方に押し寄せ、(ドイツ人追放)跡地にはポーランド人やロシア人などが移住した。戦争中、ナチス・ドイツによって追放されたポーランド人の多くもプロイセンに帰還した。ドイツ人ではないスラヴ系民族は追放を免れたが、激しい人口の入れ替わりのためプロイセン地方固有の文化はほとんど失われ、終戦後1947年2月25日連合国管理理事会法令47号によりプロイセン自由州の解体が宣言された。

 

米西戦争 - Wikipedia

米西戦争(べいせいせんそう、英語: Spanish–American Warスペイン語: Guerra hispano-estadounidense)は、1898年アメリカ合衆国スペインの間で起きた戦争である。アメリカ海軍軍艦爆発を機にアメリカ世論が高まる一方、スペインは自国傘下の海底ケーブルを持たなかった。スペインは敗北し、カリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得した。

よくわかんないですが19世紀後半にジャ・ジャは放浪していたんですね…?

ビスマルクプロイセンを1871年にドイツ帝国へとまとめ上げた首相ですが「鉄血政策」で有名です。

 

ビスマルク (世界史の窓、世界史用語解説 授業と学習のヒント 様)

 プロイセン王国首相兼外相に就任直後、皇帝ヴィルヘルム1世の意図を受けて軍政改革、軍備拡張を図って議会と対立したとき、ビスマルク
「現下の大問題は言論や多数決――これが1848年、49年の大きな間違いであった――によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」
という有名な演説を行った。この演説は「鉄血演説」、それ以後のビスマルクの政策は鉄血政策と言われ、ビスマルク自身にも鉄血宰相というあだ名がたてまつられた。
 言うまでもなく鉄とは大砲や銃・銃弾、軍艦などの武器を意味し、血とは兵士の流す血を意味している。つまり、ビスマルクプロイセンの軍事大国化のためには議会や言論は無視することを宣言したのだった。

 

この軍備増強政策がジャ・ジャみたいなアメリカ人?も軍隊に入れてもらえたことと関係するのかな…? ジャ・ジャがなに人だったかは書かれてないですが、アメリカ人でいいんだろうか…。

 

気を取り直して。

ジャ・ジャはポルカショパンの音楽が好きらしい。しかも弾いているのを聞いただけで何の曲か、何長調かまでわかるというんだから凄い。

 

まずは「華麗なる大ワルツ」。

www.youtube.com

 

こんな音楽が毎日上の階から聞こえてきたとは贅沢というか、羨ましいです。マイケル君はこの曲がわからなかったのでジャ・ジャにバカにされます。ジャ・ジャいわく、作曲当時ショパンは21歳、パリへ行く前にウイーンで作曲したもの。

「鍵盤から発する波は、暖かい台所を脈打って流れた。」(31ページ)

なんとなくこの文章が分かる、華麗で弾むような曲。これは変ホ長調…らしい。

 

 次は変イ長調の「華麗なるワルツ」。

 

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 うっわ~~~難しそう…でもとても美しい旋律ですね。

パデレフスキーのお気に入りだったワルツ」とジャジャは言います。この華麗さでは確かに様々な方のお気に入りになっていておかしくはないですが、そのウオルトディズニーやジョージ・ワシントンと肩を並べるほどの、パデレフスキーって誰だろう?

 

イグナツィ・パデレフスキ - Wikipedia

さすがWikipedia先生…。ポーランドのピアニストらしいです。メヌエットの作曲者なんですね!?

子供のとき「レーソラシドレーソッソ…」って弾いてたの覚えてます。懐かしい。

 

ジャ・ジャは毎晩ショパンの話をしてくれた。前奏曲、譚詩曲、マズルカ、説明してもらっただけで、聞いたことはなくてもどんな曲か想像することが出来た。特に、ジャ・ジャのお気に入り、闇に包まれた池のような黒光りを発する夜想曲は。

 

 

そしてショパンの「遺作」。「死後の世界から渡ってくる音楽」。

愛する若い女性を想って作った曲だそうです。

 

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晴れやかで穏やかな曲のような感じがしますが、終盤の切迫感が凄いですね。

 

次にくるのは前奏曲「雨だれ」。

本当に静かで綺麗な曲です。何気なく耳にしている雨だれをこんな音楽に昇華できるのはやはり才能のなせる技ですね。

 

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 淡々とした雰囲気から、波紋の水滴が広がるみたいにじわじわじわじわ展開する哀しげな和音が素晴らしいと思います。よくわかんないですけど…。

 

重くなりそうなので今回はこのへんで。またお会いしましょう。