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海外文学を中心に朗読した小説の分からないところを調べて、折角なのでまとめていきたいと思います。あなたの読書生活をお助け出来たら幸いです!

母がしんどい

「母がしんどい」、一時期随所で話題になり、親が必ずしも正しいものではない、おかしい母親はおかしいし、否定してもいいんだ、縁を切ってもいいんだ、という意見を提示して、毒親・毒母本の走りとなりました。

 

母がしんどい

母がしんどい

 

 

楽天ポイントが溜まっていたので、電子書籍で買ってよみました。

 

 

Pixiv発コミックエッセイ永田カビさんの「さみしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」にも見て取れることとして、親に支配されている⇒自覚、の過程の混乱が色濃く出ています。

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

(Pixivで読めます)

 

読んで考えたこと。 

親に囚われている人ほど、親に対してうまく距離を取る、線引することが出来ないということ。そういう考え方が必要な人ほど、親にとらわれて苦しんでいる。幼少時からもっと健全な親子関係を築けているひとはあっさりと言えるんだと思います。「親なんか放っとけばいいじゃん」「そういう人なんだから割り切ればいいのに」「無視すればいいのに」「親なんて所詮他人」「過敏すぎ」「騒ぎすぎ」。

子供当人にしてみれば生まれながらに台風に巻き込まれているようなものです。親は台風の目で、子供は暴風雨に巻き込まれて息もつけない。難しい点は、普通の台風と違って目に見えないため、本人すら自分が台風に巻き込まれているとはなかなか気付けない点です。親は台風の目なので何もなく見えます。子供は親の世界からゼロでスタートするため、最初はそれが普通だと信じ込みます。この誤謬に人生のどこかの時点で気づき、修正していく必要があります。生まれながらの歪みは、直すのが非常に困難です。

 

「ゆがみちゃん」本編 ①追憶編|原わた|note

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一昔前まで虐待といえばDV、ネグレクト、体罰、アル中、といった非常に記号的でわかりやすいものでした。少し経って「優しい虐待」といって過保護過ぎる親の存在もフィーチャーされだしました。何でも買い与えて甘やかすといったもの。こちらも分かりやすかったと思います。

その反面、あるときは異様に優しいのに突然異様なまでに怒り出すとか、ご飯は毎日作ってくれるのにバイトや友達付き合いを過剰に制限するとか、そういう「ムラがある」親、精神的に不安定・未成熟だったり、子供を支配したがる親については随分長い間見過ごされてきたように思います。「親には親なりの苦労がある」「養ってもらってるんだから」とかですね。でもペットに対して同じことが言えるでしょうか。飼い主には飼い主なりの苦労がある、ペットは飼い主に養ってもらっている。確かにそうですね。でも、だからといってペットが飼い主にどんな扱いを受けようと間違いではない、と言う人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

人はみんな子供でした。ひとりの子供に、親は大抵一組ですね。ですからどんな人間も自分の親以外の環境は、根本的には知り得ません。ですので、こと親の話となると、その人が受けた待遇や置かれた境遇がむき出しになります。親がまともな人ほど親孝行したいという気持ちになるし、親不孝はやめようという気持ちになるんだと思います。でもそれは人に押し付けるものでは、ないでしょう。自分の友だちがいい人だから優しくしたい、他人も自分の友だちにはそうするべき、というのはおかしな話です。その人の友達がどういう人かなんて知らないのにそのような発言をするのは、無責任だし世間知らずもいいところです。その人の友達がどんな人間かは、友達であるその人が一番よく知っています。文章にすればこんなに簡単で当たり前のことも、親に対して言うのはタブーでした。

「親がしんどい」「ゆがみちゃん」を読めば、そういう抑圧がいかに陰湿で、子供を(成人し、社会的に子供じゃなくなった後も)内側から苛むかがわかってきます。ことに女性は通常20代~30代前半で母親になることが多いため、「自立して親から逃れた後に、子供を産んで親になる」というスパンが短い。なので、毒親に産まれついた場合、就労や交際と平行して、自分が与えられた歪みにいかに気づき、子供に受け継がないように矯正し、自分の人生を立て直していく、という課題に取り組まなければならなくなります。それも自分が歪んでいることに気づけたらの話ですが…。

 

アリス・ミラーは親子間の虐待、心理的抑圧の連鎖について指摘しています。

魂の殺人―親は子どもに何をしたか

魂の殺人―親は子どもに何をしたか

 

 ヒトラー等の独裁政権指導者においても幼少期の虐待が存在しました。深刻な人格の歪みは親に起因することがほとんどである、と私は思います。

歪みが「歪み」と是認されていればまだ話は簡単です。歪みは歪みであって、その中に「正しくないもの」「間違い」というニュアンスを含みますから。しかし家庭内では違います。「歪み」は「愛情」「しつけ」、つまり「正しさ」「掟」として機能します。その言葉はあまりに抽象的で具体化できません。子供は目の前の行動とその言葉を関連づけ、この行動がその意味なんだと認識するしか出来ません。それが家庭という世界のルールであり、犯すことのできない規律です。

 

私は東北の山奥に生まれました。母は所謂片付けられない女性でした(この言葉もまだありませんでした)。いつでもハンカチや印鑑、ペン、メモ帳、家の鍵、輪ゴム、セロテープ、消しゴム、ハサミ、ポケットティッシュ、ノート、いろんなものを引っ切り無しに家中かき回して探していました。

片づけられない女たち

片づけられない女たち

 

 私にとっての母は、もう何だかよくわからない存在です。嵐のようです。ひどく荒廃した人格にも見えます。傍目には愛嬌があり可愛らしい女性です。店は商売をやっているのですが、周囲的にはうっかり者のかわいいおばさんみたいな感じです。今60過ぎですが年齢よりだいぶ若く見えます。ご飯も毎日作ってくれます。それでも、何だかよくわからない人です。どこかにぽっかりと欠落した部分があって、それにひどく疲れます。人の気持ちを考えられないところがあります。異様に自虐的なのにプライドが高く、クイズ番組に出る芸能人を馬鹿にするのが好きです。私も小学生のとき都道府県の県庁所在地が言えなくて馬鹿にされて、ひどく恥ずかしく思ったことを覚えています。

印象に残っているのは中学の時私が自律神経失調障害になり、朝起きられなくなった時のことです(結局この自立神経失調症は大学に受かって家をでるまで治りませんでした)。母は毎朝ラジオをつけるのですが、その音を聞くと頭がガンガンして気持ち悪くなりました。なのでやめてと叫んだり、時には消したりするのですが、少し経つと母はまたラジオをつけて、つけっぱなしのまま下に降りて行ってしまいます。寝る部屋ではタンスの中に入りきらない服が山となって散らばり、もうそれはオブジェと化していました。家では棚は棚ではないし、ファイルや引き出しにしまわれた全ては永遠に使われないものでした。使うものはバラバラに投げ出してあります。埃だらけのまま放置された無数のそれらを見る度に空虚なきもちになって、魂が抜きとられるような心地になりました。今でも帰省する度鬱になって帰ってきて、三日は寝込みます。

母の中では一瞬は一瞬として千切れています。とぎれとぎれになっていて、連続した時間というものがありません。この間帰省したとき、ずっと前ここに入れておくからねと言って普段使わない棚に仕舞った食べ物が、消費期限が2012年で手づかずのままありました。捨てました。母に聞いたらあったことは気付いていたといいます。何で捨てないの?と聞いたら黙っていました。

母に何か相談したことはありません。母はどんなことでも私を責めるだろうと思います。中高の六年間私は地獄でした。私が自殺手前までいっていた時、母は何もしなかった。今でもその点で母を許せません。死ねばいいと思いますが、どうせ時間が経てば死ぬので別にいいと思っています。

表面上は、一緒に母のDVDを見たり、ご飯に美味しいよと言ったり、三ヶ月に一回くらい電話をかけたり、別れるときには体に気をつけてねと言います。服がないと愚痴ってくるときには一緒に服を買いに行きます(母の服は箪笥六個分はあるのですが、ほとんどが昔の服で今着れる服は「雑巾のようなもの」しかないといいます。その愚痴っていたのですが、自分では何を買えばいいかわからないから一人では買えないといいます。多分同じように何を捨てればいいかも分からないんだと思います)。弟をかわいがっているのですが、弟があげた誕生日プレゼントは埃まみれで封も切らないまま放置されていました。貰ったきりどこに置いたか忘れたんだと思います。どんな言葉も態度も母の中では無効化されます。それが、ADHDのためなのか、高血圧のせいなのか、ぼけの前兆なのか、元々の性格なのかはもうわかりません。もう別にわからなくていいと思っています。周囲はたった一人のお母さんなんだから大事にして親子仲良くねと言います。

 

反対に父はひどく綺麗好きで、お坊ちゃまで有名な私立大学を出、銀行職員でした。(所謂団塊の世代全共闘争時代の人でした)。地元の名士的存在で顔も広く、優しいきちんとした人で有名でした。機嫌のいい時はとても優しい人でしたが、怒るととても怖かったです。私が小学生くらいの頃、父は定期的に部屋が散らかっていると激怒して、怒鳴り散らしながら部屋中のものをゴミ袋に突っ込んでいきました。教科書やランドセルもそうでした。自分の持ち物が一瞬のうちにゴミになっていくのが凄く怖かったです。私は泣きわめきながら大事なものを父に見つからないところに持って行って逃げました。父が怒り疲れて部屋に去った後には、母や弟と一緒にゴミ袋から要るものや使えるものを取り出しました。

父は繰り返し繰り返し、「お前らは普通じゃない。こんな犬小屋みたいな場所にいて平気だなんて異常だ、普通の人間の暮しじゃない。何で整理整頓や片付けなんていう当たり前のことが出来ないんだ、すたらがねえわらしんど(だらしがない子供たち)だ」と怒鳴りました。一激怒に十回は言われたと思います。

「自分は普通じゃない子供だ」という烙印は今でも心の底に焼き付いています。今でも私は片付けようと思うと異様な無気力さに襲われて、散らかった部屋にいる自分が異常な存在なんだと思うと泣きたくなります。部屋は結構なぐちゃぐちゃです。エナジーを吸い取られるような環境にいるのが悪いのだから、やらなくてはならないのですが、どうしてもだめです。次に引っ越すときに業者に頼んでクリーニングしてもらって、次の家で初期化してやり直すしかないと思っています。次の引越し先でも繰り返したら、きっともう駄目なんでしょう。

高校生のときに東日本大震災がありました。でも、喪失感や寂寞感、恐怖、辛さは普通だったので、寧ろ「誰かと共有出来る辛さ」であることが、楽なものだと思いました。テレビで毎日報道されて世界中の人に励まされて誰もが「つらいね」って言ってくれて。それなら毎日誰にも言えない慢性的な辛さを抱えている私はどうなるんだろう。この辛さが可視化されて世界中の人に知られたらどんなことになるんだろう。こんなことで辛いって堂々と言えるなんて羨ましいと思いました。自宅なんかぶっ壊れてしまって、違う土地に引っ越せればいいと思っていましたが、まわりの家はこわれたのに、祖父母の家も両方とも跡形もなくなったのに家だけは浸水でした。

父は数年前に亡くなりました。突然のことでショックで泣きましたが、変な開放感があったのを覚えています。母と親戚とのトラブルでそれどころではありませんでしたが。叔父は激怒し、母は興奮して脈絡のないことを喋りまくり物を無くしまくり、叔母は記憶喪失になりました。私は当時付き合っていた彼氏や直面した母のおかしさでパニックで、一方的に母を詰って冷戦状態に陥いりました。もう地獄絵図もいいところだったので、二度と思い出したくありません。

 

何だか自分語りになってしまいました。ごめんなさい。

私は自分の親が毒親だったのか何だったのかよくわかりません。ご飯を食べさせてもらて、家があって、大学や一人暮らしのためのお金を出してくれて、でも、感謝は出来ないです。代償を考えれば、当事者の被害者意識をあることを考えてもプラマイ0ではないでしょうか。 これは親不孝なのか何なのか分かりません。成人すればどんな生き方をしていても親の責任ではなく自分の責任になる、という考え方を知って、なら自分で何とかしなければと思って、自己啓発の本や毒親本を読んだり、ネットの記事を見たりして、家を出て五年目で漸く安定した気持ちで日々過ごせることが多くなりました。

この記事を書いている今は駄目です。お盆に帰省してから何だかぼうっとして、体がしびれたみたいで毎日寝て起きているだけで精一杯です。何故か毎日泣いてます。何だか辛くて、昔見ていたDVDや音楽を聞いたりしています。「母がしんどい」を読んだのもそういう何かの心理作用の一貫なんでしょう。

形にならない「親」は毒ガスみたいなもので、気が付くと生きづらい、気が付くと体中に回って全身を支配するレベルのものになります。親と子供の責任はアンビバレンスというか、凄くデリケートで微妙な所です。共依存、過干渉という言葉は最近使われだしたように思います。従来の「暴力を振るう親は虐待」「ご飯を作ってくれる親は素晴らしい」みたいな、単純なものではなくなっています。でもそれは昔が単純過ぎただけの話だと思いますし、仮に難しいとしても難しいということは学ばない理由にはなりません。必要であればどんなことでも学ばれるべきで、知られるべきです。

インターネットを見てるとどんなものにも「甘え」「怠け」が散見されます。非常に嫌な言葉です。そういう言葉を振りかざす人は瘴気の塊みたいだと思います。インターネットの祟り神みたいなものだと思います。

 

「母がしんどい」の絵柄は非常に素朴です。

comic-walker.com

非常に素朴なので何かつるっと読めちゃうのですが、実際にこういう人物が母親として、いや、人間として「居る」ことを想像すると随分重苦しい気分になります。漫画のキャラクターだから成立している「何かよくわからない存在」。娘が自分の為にケーキをつくりだして、うまくいかない。そんなのに激怒する必要なんてありません。ホームビデオの一つでも回して、教えてあげながら一緒に作ってあげて、いい思い出にしてあげて、じゃあ毎年こうやって作ってもらおうかな、みたいなことをやるのが多分普通(「良い」親なのかもしれないですが)の反応だし、私もそうすると思います。だってわざわざ怒る必要なんかどこにもない。何も悪いことなんかしていない子供が可哀想だと思う。でもこのお母さんは異様な激怒。器が狭い、というのか、子供じみてる、というのか、何だかよくわかりません。言語化ができない。言語化ができない以上、「おかしい」とか「変」とかぼんやりした言葉や、「よく怒る」みたいなどうとでも取れる言葉しか使えない。その育て方の違いが子供に出ないなんてありえないことです。

人間の成長に精神的に一番大事なものは自己肯定感だと私は思います。それで、それを育むことが出来ない親というのは、自分に対する自己肯定感も、どこかで無いのだと思います。

 

田房さんは1978年生まれで、現在は結婚していらっしゃいます。今年、どうしてもキレて夫に暴力を振るってしまうというコミックエッセイを出版されました。

 

田房さんはこれも自分と親の関係が起因していると推察されています。どこまで親のせいにできるかというのは線引が難しいところです。猫も杓子もというふうになってしまってはいけません。ですが、生育歴と現在の状態は深いところで複雑に絡まり合い、影響を及ぼします。ひとつひとつを拾って、丹念になぞり、必要とあらば骨の髄まで向き合って、変えていかなければなりません。それは非常に時間がかかる作業で、おそらく一生を要します。

親で一生は優しいものにも情け容赦ないものにもなります。その恐ろしさや、芯からそれを感じられないまでも苦しんでいる人がいるということが知って貰えたらいいと思います。誰でも子であり親になりうるのですから、すべての人の自戒にして頂きたいと思います。

 

★明け方にごしゃっとまとめて書いたのでおかしいところもあるかもしれません。後日追記修正します。